英語の第1歩としてあまりにも有名であるがゆえ違和感がないのかもしれませんが、This is a pen ・・・ 日常生活の中でこんな言葉絶対に言わないですよね。なぜ、This is a pen.だったのか。どうしてこんな文を思いついたのか・・・・などと考えてみると、先達の偉大な知恵に感服します。

文法の基本は文型です。文型、文の構造を把握できることは英文が複雑になってくればくるほど必要となります。現在最も一般的な5文型文法でも、ほとんどの英文が5つのうちのどれかに分類できますが、この大枠を理解することが英文解釈においては重要な鍵となります。そしてさらにその基礎となるのが、be動詞と一般動詞の区別です。
これこそ、まさに算数の足し算、掛け算の区別にあたると言えます。その区別が出来ていないゆえの、 Are you a doctor?  No,I don’t.  とか   Is he play football?     のような間違いには、たびたびお目にかかります。これを単に am と do 、does と is の勘違い、くらいにとるべきではありません。このような間違いをする生徒は、be動詞と一般動詞の文の根本的な違いが理解できていない、あるいは感覚として身についていないと考えるべきです。これこそが後々英語がわからなくなっていくつまづきの大きな根です。
では、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。その原因は現在の中学英語のカリキュラムそして教科書にあると考えます。かつて英語教科書の最初といえば This is a pen. というのがいわば常識でした。全ての教科書がそうだったとは思いませんが、ドリフターズもその全盛期に This is a pen.をコントに使っていましたから、英語の初歩としての国民的認知度は大変なものであったことは間違いありません。私の中学校時代の教科書もそうでした。 そこから Is this a book? Yes,it is. さらに What is that? It’s an eraser . という具合に発展していきました。充分に理解し感覚として身につけさせるには、英文の量が不足していたことは否めませんが、そこにはbe動詞のSVCをまず覚えさせ、少しずつ単語を増やし文を長くし、そして次の文型・・・と。頭の中に文法の骨格を徐々に形作っていこうという計画的、系統的指導体系を見ることができます。
ところが、日本の英語教育は使える英語を身につけさせないという批判が起こり始めました。中高6年間も英語をやっていながら日常会話すらままならないではないかというよく聞く批判です。そして教科書も日常会話要素を多く取り入れた内容に改訂されました。堅苦しい文法より実用的会話表現から入った方が、実際に英語を使えるようになると考えたのか、あるいはその方が英語を好きになると考えたのか、いずれにしても「習うより慣れろ」に路線変更したということが伺えます。果たして成果はあがったのでしょうか。私はむしろマイナスだったと思っています。初めから文法的脈絡のない会話表現や文が色々登場し、生徒たちはその言葉をただ暗記します。be動詞がでてきたかと思えば一般動詞もでてくる。混同してしまうのも無理からぬところです。
「習うより慣れろ」が妥当性を持つのは、接する英語量とそれに関わる時間が大量にある場合だと考えるのです。確かに以前より教科書の英文量は増えましたが、「慣れる」には少なすぎます。アメリカ人の子供は英語を「慣れて」覚えるでしょうが、それと同じ習熟システムが現在の日本の学生に妥当性を持つはずがないのは火を見るより明らかです。そもそも「慣れる」とはどういうことでしょうか。人は「理屈抜きに」「慣れる」ように思いがちですが、少なくともことばの場合、無意識に言葉は体系化され、文法化されているといわれます。そうでなければ使う言葉、文、すべてを記憶していなければならないことになります。「これはペンです」がわかり、「本」という単語を知っていれば、「これは本です」が言えるわけです。もし文法的理解が全くなければ、2つの文は全く別物としてそれぞれ記憶しなければならないことになります。私たちは沢山の言葉に接しているうちに自然と文法的整理をしているのです。
しかしそこに至るには大量の言葉と時間が必要です。そこで効率よく覚えさせるために先人が多くの時間を費やして「慣れた」結果導き出された奥義「文法」が登場したのです。もちろんことばですから文法に当てはまらない例外も,特に会話表現の中には沢山あります。しかし、原則を知っているから例外として記憶されやすいわけで、初めから例外を並べられては何に対する例外かもわからず覚えにくいことこの上ないでしょう。
文法は外国語習得のためのコツです。スポーツでもコーチはコツを教えます。それがなければ、個人の持てる力で代々終わり、発展はありません。コツを教え、それが感覚として身につくまで反復練習させる、つまり「慣れる」はここで必要になってくるわけです。この「慣れる」という必要性が少なくなるほど、それは優れた教育方法だといえるわけで、その意味からも現在の改訂は後退だと考えるのです。
ベストクラスではこれまでに様々な英語導入期の指導を試行してきました。その結果、やはり be 動詞ならbe動詞の文の感覚が完全に身につくまで一般動詞に入らない(逆でもよいのですが)ということが大切だと考えています。This is a pen.や I  am strong. といったbe動詞の文の感覚が身についた(慣れた)段階で初めて I like birds. や I play soccer.を教えると、「今までのと違うね」と、つまり「動詞」を感じてくれるわけです。ところが中学生の場合その間にも学校では次々と新しいことを教えてくれてしまいます。学校の授業を無視するわけにもいきませんから、混乱させずに導くのが難しいのです。そこでベストクラスでは小学生のうちに英語を始めることを勧めています。そうすれば、中学校にあがっても混乱することなくやっていけるのです。もちろんただ始めるのではありません。小学校から英語の塾に行っていても出来なくなる子は沢山います。前述したようにきちんと体系立てて教えなければなりません。その結果、中3生ともなれば英検2級の実力をつけることも可能なのです。私は普段、多くの東大生と接し、英語の話しもしますが、ベストクラスの中学生の方が英語をわかっているなと思うことが度々あります。これは決して欲目ではありません。もちろん大学入試問題をやらせれば東大生の方が100%、点数で上回るでしょうが、それは単語力の差です。根本的な文法の理解、骨格は必ずしも東大生に負けるものではないのです。あとは単語力という筋肉をつけるだけ。そして太い骨組にはそれは加速度的についていくものなのです。